ウィステリアの花園

「やっほ、元気にしてた?」と彼女がドアを開けながらやってくる。僕は「元気だよ、一日でそうそう変わるわけがないじゃないか」と笑いながら彼女を部屋の中に招き入れる。

 彼女が来るのはいつも唐突で、それでいて丁寧に予告がされるものだから、既に紅茶は適温になっていた。彼女は椅子に座り出された紅茶を飲むと「茶葉変えたの?」と尋ねる。僕は「ちょっとね」と返しながら自分の紅茶が入ったマグカップを持って彼女の対面に座る。

 そこから他愛も無い雑談を交わしながら僕の淹れた雑味のある紅茶、彼女の作った少し歪なクッキーでスナックタイムを過ごす。いつしか時間は夕方のニュースが流れる時間になっていた。彼女は「そろそろ帰るね」と言うと席を立つので僕は見送ろうと共に席を立つ。そして彼女のためにドアを開けようとした時だった。

 一瞬、本当に一瞬の出来事だった。彼女と僕の距離はゼロになり、ほんのりと唇が温かくなり、そして冷めていく中でその意味をようやく理解した。僕がその行為の意味を問いただそうとした時には彼女は既にドアの外で、僕は結局立ち尽くしたまま彼女を見送ることしか出来なかった。


 そこから気がつけばどれほど経っただろうか。僕は気がつくとベッドの中に居た。あの衝撃の余韻よいんからの記憶という物が無く、時刻は深夜一時となっている。普段はこの時間に寝るというのに、この時間に起きてしまったものだから、どうしたものかと悩む。

 彼女は起きているだろうか、どうしているだろうか。それだけを考えながらメッセージを送るか悩み続け、違和感を覚える。彼女はなぜ唐突にあのような行動を取ったのだろうか、と。

 僕からしたら嬉しい以上の感情はないし、彼女と結ばれたいと願ったことがあるのも本当だ。ただ、それは願わない夢なのも僕は知っていた。彼女も知っていたはずなのだ。だから、あの行動はおかしいと直感が告げている。だけど、なにか引っかかるものがある。

 やれやれ、その謎が解けるまでは寝れそうにないなとため息を付き、少しずつ辿っていくことにした。

 結論から言えば、理由も意味も何も見つからなかった。ただひたすら謎が続いていた。もうこの時間に彼女にメッセージを送るのは迷惑でしか無いし、止めておこうとベッドの中に潜る。

 こう言う時に限ってまた寝れず、人肌寂しく思う。あのような事があった後だ、それはそうだろう。どうしようもない時間を僕は過ごし、そして体感で一時間経ったあたりで僕は夢の中に入っていった。


 クスクスと彼女は笑う。僕は苦笑いを浮かべながら夢の中の彼女に問いかける。「なんであんないたずらをしたんだい?」と。当然ながら自分の夢の中の彼女は都合のいいことしか答えない。その答えは彼女らしいし、やはり僕が望むものであった。

 かなりの明晰夢だった。彼女の手を取ることも容易だったし、抱きしめることも容易だった。ただ、最後の一歩までは踏み出せなかったのだが、それでも抱きしめるその温もりだけでよかった。ただそれでよかった、良かったんだ。


 昼の十二時半に起きて、僕はようやく事の重要性を理解した。急いで準備をして駅まで向かい、電車に乗り込む。慌てて出たものだから、髪はボサボサだし服装も多少乱れているが、それはもうどうしようもないことだった。

 電車に揺られ、バスに揺られ一時間半くらい経った頃、ようやく僕は彼女の墓の前にたどり着いた。今日で亡くなって半年だ。

 頼りない人間でごめん、と墓石の前で頭を下げる。驕おごりすぎかも知れないが、あの時彼女を救えたのは僕だけだったし、救えなかったのは僕のせいだからだ。

 親しい人の死を乗り越えるのは厳しい。それが、片想いであれば余計に厳しい。あの時想いを伝えていれば、どうにか変わったのかもしれないのに。そればかりが僕を蝕むしばんでいった。

 日が陰ってきた頃にようやく僕は墓参りの本質を思い出し、墓石を磨き、花を入れ替え、お供物を備えた。彼女の好きだった紅茶を添えて。

 帰り際、東屋で休もうとした時、一際強い風が吹いた。藤棚の藤が大きく靡なびいた。まるで彼女が早く帰りなさいと急かすように、忘れなさいと告げるように、僕の背中を強く刺す風が吹いた。その風はこの季節にしては暖かすぎる風だった。

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